マカオ

マカオは珠江の河口に古くから栄えた港町で、香港の西60キロほどの場所に位置しています。世界遺産に指定された教会群や立ち並ぶカジノが渾然一体となった魅力を放っておりアジアの人気観光地となっています。

マカオの歴史

マカオ(澳門)が歴史の表舞台に登場するのは中世の大航海時代です。1513年、ポルトガル人が海路で中国に到達して以来中継貿易港として発展し、特に東アジアにおけるキリスト教布教活動の拠点として重要な位置を占めていました。遠藤周作の「沈黙」でもマカオを拠点にするイエズス会の宣教師が描かれています。
ポルトガル人がマカオに拠点を置いた16世紀中葉は日本では室町戦国時代にあたり、織田信長をはじめとした大名がポルトガルの宣教師と手を組みキリスト教の布教を認める代わりに、武器や硝石、香辛料を輸入していました。それらの産品は基本的にマカオから積み出しされていました。マカオこそ中世日本と世界を繋ぐ場所だったのです。長崎でカステラを広めたポルトガル人もマカオ経由で日本に到達したとされています。

マカオと日本の関係で忘れてはならないのは日本人キリスト教徒の足跡です。マカオには現在でもキリシタン弾圧の際に日本からマカオに亡命した日本人や、磔(はりつけ)に処されて絶命した日本人殉教者の墓が残されています。マカオのシンボルとなっているセントポール天主堂のファザード(大三巴)には、中国人を象徴する牡丹とともに、日本人を象徴する菊が彫り込まれています。(奇しくも、現在でも両国の国花。)

ポルトガル領マカオとしての歴史が始まるのは1888年です。この年、ポルトガルは清朝との間で香港からの阿片密輸防止に協力する見返りとして「友好通商条約」を締結、ポルトガルのマカオに対する行政権が法的に確立し、清朝はポルトガルがマカオを永久に占有し、第三国へ譲渡しないことを承認しました。

ここにポルトガル領マカオが誕生した訳ですが、大型船が進入出来る深い港湾が造れなかったこと、面積がおよそ東京都世田谷区の半分しかなく極めて小さかったこと、さらに折しもポルトガルの力が衰えイギリスが世界の派遣を握らんとしている時勢であったことなどから、中継貿易基地としての地位はマカオの東約60キロに位置する香港に奪われてしまい、以後その輝きを取り戻すことはありませんでした。

その後1987年4月、中ポ両国は「中ポ共同声明」に署名し、マカオは中国の領土であり、ポルトガルは1999年12月19日までマカオの行政管理責任を有し、中国は翌20日にマカオに対し主権の行使を回復する旨を宣言しました。そして1999年12月20日マカオは予定通り中国に返還され、香港同様「一国二制度」の下で外交・国防を除き高度の自治権を有するマカオ特別行政区として、現行の社会制度、生活様式を返還後50年間維持されることになりました。

現在のマカオ経済は製造業や貿易における優位性を持たないため、東洋のモンテカルロ、ラスベガスと呼ばれるようなギャンブル中心のリゾート観光業に特化しています。かつては夜総会やサウナが立ち並び、売春行為が黙認されていましたが状況は刻々と変化しています。巨大カジノが建設され莫大な雇用と収入がもたらさらたものの、過度なカジノ依存経済、狭隘な土地、劣悪な住宅環境と交通インフラ、グローバルな経済犯罪の温床となっていることなどがマカオ社会の健全性を損なっています。

2000年前後までは東南アジアの田舎町といった風情で、静かな夜にポルトガル語の歌が流れるような牧歌的な雰囲気が残っていましたが、カジノの営業権が対外開放され中国人の個人旅行が解禁された2004年前後からはサンズ・ウィン・ギャラクシー等の米国系、香港系のカジノが巨大なカジノホテルを建設し、一気に中国化が進んだように見えます。マンションの価格も当時1000万円程度だった物件が10倍以上になったと言います。

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